感想とかそんなん

海外3DCG映画が好き ネタバレばっかり

トイ・ストーリー

バズ・ライトイヤーと、「飛ぶ」ということについて。

 

まず、アンディの部屋でバズがみんなに「飛べる」ことを証明してみせるシーン。ここでバズのメインテーマが流れる。パラパパラパパラパ…という、バズといえばこの曲みたいなやつ。ここでは運良く飛べたみたいになるが、ウッディは「かっこよく落ちてるだけ」と言う。それは確かにそうで間違いではないけど、バズは自分がスペースレンジャーであることに一分の疑いも持ってない。

ウッディは自分がおもちゃだと知っているし現実を見ているが、バズが生きているのはファンタジーの世界である。

 

次に、シドの家の階段でのシーン。小さい頃はこのシーンが悲しくてかわいそうで嫌いだった。バズはテレビのCMを見て自分にとっての現実を理解する。ここでは歌詞付きの「幻の旅」が流れる。ゆったりと切ない感じで始まる曲だけど、バズが一縷の望みをかけて2階から飛び立つことを決意したところから明るい調子になる。するとここでまた、あのパラパパラパ…のフレーズが一瞬だけ流れ、バズは輝く笑顔で空中へ。けれどおもちゃが飛べるはずもなく、落っこちて壊れてしまう。

過去の自信に満ちていたシーンでの音楽を挿入してほんの一瞬希望を感じさせることで、その後の落差、挫折感がものすごいものになる。そして「信じても空は飛べない」という歌詞でこのシーンは終わる。

ここの歌詞がすごく重いというか絶望というか、そんなこと言ってしまうのかという感じがする。

 

ディズニーの映画で「飛ぶ」ということは夢が叶うこと、ファンタジーそのものの象徴だと思う。ピーターパンでもダンボでも、アイテムとして妖精の粉やカラスの羽根は出てくるものの飛ぶのに最も大切なのは気持ち。つまり、「信じれば空を飛べる」というのが、ディズニーが示すファンタジーのかたちのひとつである。そのディズニーが配給する映画で「信じても空は飛べない」と言い切ってしまい、現実に叩きつけられるバズを描くというのは、めちゃくちゃ衝撃的なことだと思う。この絶望からどうやって立ち直ればいいのか。

 

最後の「飛ぶ」ところ、アンディの車に追いつくシーン。バズの背中のロケットで空中へ飛び立つが、火が消えてしまう。落ちる!というところでまた、「幻の旅」の冒頭のワンフレーズが一瞬流れて不安を感じさせるけれど、バズは翼を広げて「飛んで」みせる。ここでバズから出るのがウッディが過去に言った「かっこよく落ちてるだけ」という言葉。

 

バズは自分がただのおもちゃだと知って葛藤したり、自我を保てなくなったりもする。でもそれは自分の力で解決できるような問題ではない。でもそれが現実だから、なんとか折り合いをつけてやっていかなければならない。バズにとってこの状態を克服するのに必要なのは、飛べるようになることではなくて、飛べなくてもやっていける方法を見つけること。

飛べないけど、かっこよく落ちることはできる。それが、バズが悩んだ末に見つけた落としどころなんだと思う。

 

「信じれば夢は叶う」だけを見せるのではなく、「信じても夢が叶わないとき、どうするのか」を見せること。

おもちゃが動ける夢の世界を描き、その中で従来のディズニーにおけるファンタジーを壊してしまっておいて、その上でさらに新たなかたちで希望を与えてくれるというのがトイ・ストーリーの革命的なところだなと思う。

リメンバー・ミー

ぐちゃぐちゃの感想、備忘録

 

死後の国で、なぜデラクルスだけあんなに豪邸に住んでるのか?と思ったけど、現世で覚えてる人が多いのに豊かさが比例するのか。ってことは、真実が暴かれたあともデラクルスのことは覚えてるわけやしあの豪邸自体はそのまま?
死後の国で冷遇はされるやろうしお供え物も減るだろうけど、覚えてる人が減るわけではないので暮らしはそのままなのかな。それとも現世の人々の記憶が自動的に死後の国に反映されるわけではないのか?と思うけど、祭壇に写真がない骸骨たちはスラムみたいな所に住んでたし…

 

ラクルスが毎年パーティーとサンライズ・コンサートを開催するってことは、祭壇に写真があるのに現世に全く帰ってないってことで、本当に自分の名声と音楽以外興味がなくて、会いたいと思う人もいなかったんだろうな…

 


リメンバー・ミー」という言葉について、ヘクターは娘のココに対しての気持ちだったわけだけど、デラクルスはできるだけ多くの不特定の人々に向けての気持ちで歌っていたのかも。それが「有名になりたい」という思いとなっている。

それが現れていると思うのが、写真とかの記憶媒体。ヘクターは自分が写っている写真を一枚しか持っていなくて、それを後生大事にしてた。対してデラクルスは写真が色々なところに飾られているだけじゃなく、レコードや出演した映画や銅像なんかもあったりする。
ラクルスにとっては、できるだけたくさんの人の目に留まり、覚えてもらうことこそが重要だったのかも。だから家族とかの特定の誰かに思い入れるよりも、分かりやすくパーティーやコンサートに集まる、またお供え物をしてくれる不特定多数の人々が大事だった。


そんな彼が真実を暴かれるのが、会場のカメラによる中継でっていうのが因果応報という感じ。

映像に撮られてしまって失脚というとモンスターズ・インクのウォーターヌースを彷彿とさせるけど、あちらは失言を録画して動かぬ証拠にするっていうカメラの「保存」の役割が重要で、デラクルスの場合は、大勢の観客に現在の状況がそのまま筒抜けになってしまうっていう「中継」がカメラの役割。

祭壇に飾られる写真がすごく重要な世界だからこそ、カメラの果たすところは大きいのかも。

 

歌のシーン、ウンポコ・ロコも好きやけど哀しきジョローナがかなり好き。歌への導入もドラマチック。何より、夫をなくしたイメルダが歌う「女が男を命より大切に想う」って内容の歌を自分のコンサートのオープニングアクトに仕立てたあげく、デュエットまでして自分の見せ場で締めるなんてことをするデラクルスのとんでもなさが表れてていい。

昔の親友を殺して曲を奪って、それをずっと隠してきたことが発覚した直後に、親友の妻とデュエットするとかできる??きっとそのへんの葛藤はもはや全然なくて、突然の乱入者をどうパフォーマンスに生かすかっていうことの方がよっぽど大事やったんやろうな。歌声だけで伝わるデラクルスのあまりの自信満々さ、厚顔無恥に感心してしまう。惚れ惚れする悪役っぷり。

 

あと、ダンテが魂のガイドっていう伏線が死者の国に行く前のどこかにあるはず!と思って2回目見たら、初登場のシーンで「アレブリヘ」の看板と共に出てきてた。しょっぱな!

カーズ

 

マックィーンはなぜ1位でゴールしなかったのか?

ピストンカップの最後で、マックィーンはクラッシュしたキングを助けて優勝を逃す。1位に固執していたマックィーンの成長が見えるシーンだけれど、1位でゴールしてからキングの元に向かうのでもよさそうなものなのに、わざわざゴール直前で引き返したのはいったいどうしてかという話。偽善のようにも見えてしまうけど、理由がある。

 

この作品の主題は「自分より他人を優先すること」だと思う。いつでも自分が一番で、レースで優勝することしか頭にないマックィーンの成長とは、自分を差し置いて他の誰か、何かを尊重できるようになるということである。
物話の中盤で、マックィーンはラジエーター・スプリングスのみんなに恩返しをする。お客としてそれぞれのお店を訪れて、塗装やタイヤ交換を施してもらう。ここで重要なのは、この時点でマックィーンは道路の修繕を完遂しているということ。つまり、本来ならすぐにでもレースのためにカリフォルニアヘ向かえる。何よりも大切なレースを保留してラジエーター・スプリングスにとどまっているのである。

ここでマックィーンはサリーを含むラジエーター・スプリングスのみんなを自分より優先した=恩返しをしたことになるけど例外がいて、それがメーターとドック・ハドソン。メーターはレース後にその夢を叶えてあげるのだけれど、ドックヘの恩返しは?それこそが、マックィーンが優勝しなかった理由だと思う。

 

レースの終盤でキングはクラッシュを起こし、マックィーンの中でその姿がドックと重なる。自分よりずっと先輩のレーサーで、好成績を収めていたのに一度のクラッシュで引退せざるをえなかったドック。ドックにとっても、キングの姿は過去の自分と重なって見えたはず。

ここでマックィーンが自分の優勝を諦め、キングを助けにいくことで、同時にドックのことも救ったことになる。ドックが心に抱えていた傷はクラッシュの恐怖そのものというよりはむしろ、それで自分が突然見捨てられたと感じたことだったのだと思う。

マックィーンが、何よりも追い求めたピストンカップ優勝よりも過去の自分=キングを優先し、助けてくれたことこそがドックに対する恩返しになった。だから、マックィーンが1位でゴールしてから引き返してキングを助けに向かうことはドックを救うことにはならない。「1位を諦めて」助けにいくことが、ドックヘの恩返しでありマックィーンの成長なんである。

 

この、他人を優先することとカーレースの順位を重ねてるのがディズニーの行儀が良い感じが出てて、っぽいなあと思う。ピクサー作品の好きなところは、前提となる舞台や設定が単に魅力的であるだけじゃなく、その舞台や仕組みそのものに意味がしっかりあるところ。


あとマックィーンについて、こうかも?と思うところがあって、それがステッカーについて。序盤のマックィーンは自己顕示欲の塊で、ステッカーを反射させてカチャーウ!というのをよくやる。あのステッカーそのものが、強すぎる自己顕示欲や高すぎる自尊心の象徴なんではと思う。

ラジエーター・スプリングスでベッシーに繋がれたとき、セメントでステッカーが汚れてしまう。これはスーパーレーサーである自分が田舎の町に拘束されて道路の修繕なんかをさせられて、しかも町の誰も自分のことを知らないという状況に自尊心が傷つけられているっていう表れなんかも。その後マックィーンはカチャーウ!とかすることがなくなるどころか、恩返しのシーンではすてっかも取っ払ってすっかりラジエーター・スプリングス仕様になっている。

 

内面の変化が見た目に反映されるというのも、自動車っていう設定を存分に活かしている感じがする。

ファインディング・ドリー

 

ドリーは忘れん坊で何でもかんでも忘れてしまう。それを、コミックリリーフとしての特徴、劇中での笑いどころとして消化するのではなく、ドリーを形作る性質のうちのひとつだと捉えるという話。

またキャラクターは、ストーリー上その特徴を持つ役割が必要だったから作られた、特徴ありきのハリボテなんではなくて、「その特徴を性質として備えているキャラクターが、ストーリーに登場している」のであるという話。

 

前作のニモでは、片方のヒレが小さいという外的なハンデについて、今作は内面のハンデについて描いている。内面のハンデは、目に見えない分わかりにくく、自分でもただの欠点だと思い込みがちで、自分の性質だと理解して向き合い、付き合っていく方法を見つけるのはむずかしい。

ドリーの周りが彼女のことを理解するだけでなく、彼女も自分自身を理解するというのが物語の軸としてある。

 

前作では、ドリーの忘れっぼさは作中でのギャグのためのものでしかなかった。この作品に限らず、怖がりとか怒りっぽいとか間抜けとか、笑いどころとしてキャラの性格、というか欠点が使われるのは全くめずらしくない。普段そういうものだと思って気にも留めていないけれど、それってその人自身にとっては笑いごとではないのでは?

お話の中ではギャグのための記号でしかなくても、その人にとっては自分の性質なわけで「忘れん坊」「間抜け」というステッカーが自分にぺたっと貼ってあるだけなんではなくて、切り離せない「自分」の一部なんである。そういうことに切り込んでいるのが今作だと思う。

 

これって挑戦的というか、寝た子を起こすみたいなところがあると思った。主人公の脇に、なんにも考えていないようなおバカなキャラを置いて、その発言や行動をお話の笑いどころにするなんていうのはどの作品でもある程度あてはまるところはあるし、もちろんディズニー作品にもたくさんある。

今作でドリーの忘れっぽさについて茶化さずに深く深く描いて、持って生まれた性質と向き合うしかないことの重たさを見た人に印象付けたことで何が変わるかというと、以前のようにはドリーで軽く笑えなくなるんである。面白さを感じても、その裏に地続きのストーリーがあることをもはや知ってしまっている。

そしてこれは、ドリーというキャラクターに限られたものではない。作品の中にはドリー以外にも、様々なハンデを持つキャラクターがたくさん登場する。7本足のハンクとか目が悪いディスティニーとか。それがキャラ付けのためではなくて彼ら固有の性質なんだと自然と納得できるようになるし、何か問題を抱えていることが当たり前と思わせる。それらのキャラクターの中で特に注目してしまうのは鳥のベッキーだと思う。

 

 

ベッキーは典型的な「何を考えているのか分からない間抜けっぽいキャラ」である。作中でマーリンがベッキーの助けを借りようとするとき、心を通わせろとか気持ちは伝わるとかそういうことを言われる。

ここで表現されようとしているのは「何を考えているのか分からない」キャラクターが「何も考えていない」わけではないということだと思う。他人の目からは考えているかどうかすら分からないとしても、自分が考えている以上、自分と同じ存在である彼女も考えている。その点で自分と彼女は同じである。

種族の違いがあるので分かりにくいけれど、前作と今作の世界では動物ならみんな意思を持っていて話も通じるという前提があると思われるので、ベッキーとマーリンが同質の存在だといって問題ないはず。

 

また、マーリンとニモとの会話で出てくるセリフに「ドリーならどうする?」というものがある。これはつまり他人の立場になって考えてみるということであるけど、一見よく分からない他人の目線に立ってみることで、その他人も自分と同じ存在だと捉えることができる、というところまで含んでいると思う。

自分の生きている世界は「自分目線の世界」でしかないこと、自分以外の他人にもそれぞれの「自分目線の世界」があることを意識させてくれるという役割を、マーリンとニモが担っているのだと思う。

 

 

ベッキーとあまりにも似た存在がその近くにいることは、やはり気になるところだと思う。アシカのジェラルドもまた「何を考えているのか分からない間抜けっぼいキャラ」で、ベッキーほどには話の筋に関わってこない。考えたのは、彼は「練習問題」なのではないか?ということである。

作品を見た人は、まず主人公のドリーを通して、キャラクターの性質が単にキャラ付けのためのものではないことを学ぶ。主人公なので、ドリーは主観も描かれる。そしてベッキーも「他人を理解すること」という流れで登場し、今度はベッキーの気持ちは描かれずに客観だけ。そして、似た性質のジェラルドはほぼ登場するだけなんである。

まるで、「ドリーはこうでした、ベッキーはこうかも、ではジェラルドは?」という問題が示されているみたいだと思った。ドリーとベッキーの描かれ方を見た後に、これまでと同じくジェラルドを単なるコミックリリーフと捉えることが果たしてできるのか?

そういう問題を投げかけられている気がしたし、これはこの「ファインディング・ドリー」という作品内に限らず、今後見るすべての作品に影響してしまうかもしれない考え方の提示だと思う。そういう憲味ではむしろ、呪いのようだとも思った。

 

前の方で挑戦的で寝た子を起こすようだと書いたのは、これまで数多くの作品を生み出し、これからも作り続けていくディズニー・ピクサー自身が、その作中に登場するキャラクターの捉え方の根本を揺るがす価値観を掲げてみせたからである。キャラクターの描き方というか、作品を作る上でのあり方がこれから変わっていくのかな。

 

 

長々と書きすぎたけど、この考え方も内面のハンデというテーマもその解決の仕方も、すごく現代的で今のわたしにとって納得がいくものだった。もっと好きなシーンについてとかも書こうと思ってたのに。次の機会にしよ。

海外アニメ映画のちょっと感想

 

記録兼レビュー兼おすすめってことで、一応ネタバレはなし。と思って書いたけどまあまあ守れてない気もする

思いついた順に追加していこ〜

 

 

ブック・オブ・ライフ〜マノロの数奇な冒険〜

キャラクターとか背景とか全部のデザインがすてき。人形劇っぽさがあってファンタジック。メキシコの死者の日がテーマになってて、つまりディズニーシーのロストリバーデルタのクリスマスのあの感じ。

ごちゃごちゃしたカラフルさ、ちょっと変わった特別な世界観のファンタジーが好きな人ぜひ見てほしい。

ピクサーの次回作も死者の日がテーマやし、どっかで取り上げられへんかな〜

 

メガマインド

むちゃくちゃおもしろい。こんなに完成度高い映画やのに不遇すぎ。ドリームワークスのいいところが全部出てる。笑いどころ多すぎやしキャラクターもすごいよい。

今までにない感じの現代っぽい怖さのキャラが出てきたり、正義とは?悪とは?みたいな問いをここまで説教くさくなく描いたりするんはドリームワークスやからこそやなあ〜と思う。

吹き替えも山寺宏一東地宏樹甲斐田裕子とか盤石も盤石。

今のジャイアン木村昴も出てたんやけどすごいよかった!

 

コウノトリ大作戦

全体的にギャグが新しめというか、ギャグ漫画とか最近のカートゥーンっぽい。キャラクターの表情が半端なく豊かでびっくりした!特にチューリップ、むっちゃかわいいな〜

  全体的に軽〜いあほなノリかと思いきやしっかりテーマ伝えてくるシーンも(ちょっとは)あるしよかったけど、最後らへんは雑!かな!

アンジャッシュが吹き替えやってて渡部が主人公で、それはまあいいねんけど 児嶋が謎に上手くて全く気づかず後から知ってわろてもうた

 

ターボ

ど〜〜〜〜しても華がないし設定に無理がある…という感じ

3DCGアニメでレース物っていうとカーズが比較対象になってしまって、まあ車とカタツムリやからしゃあないねんけどやっぱり爽快感とか迫力が…ってなってしまった。

不良カタツムリたちやガニエはいいキャラしててよかった。特にガニエ。大塚芳忠〜〜〜

 

くもりときどきミートボール

これは見る前から分かってたことやねんけど、食べ物が空から降ってきて地面に落ちててしかもかなり無駄にされてるっていう描写が受け付けへんかった。大前提のやつ

その状況が問題視されるきっかけも食べ物を粗末にするのがダメやからっていうよりは、食べ物が巨大化してきてあぶない!ってのもそこ!?ってなった

フリントとサムのカップルはおぼこくてかわいい。

2の方が好きやったな!チェスターV!梅津秀行のキャスティングが天才

 

ブルー 初めての空へ

ブラジルの底抜けに陽気な感じが溢れててよかった。つられてテンション上がってしまう感じ。そしてヘタレな山口勝平が大正解。

ストーリーはありきたりやけど、雰囲気はいいし歌もいい。

特に電車の屋根の上での歌のシーンは、3DCGアニメのなかでも上位に入ると思えるロマンチックさ!

悪役も魅力的で鳥のくせにおそろしくて好き。

2はあんまりやったけど、なんとブルーノ・マーズが声優で出てて歌も歌っている。ゴージャス

 

モンスター・ホテル

とにかくメイヴィスがかわいい。

設定もキャラクターも魅力的やけど、なんかちょっと散らかってる感じやったかも。前評判がよくて期待値上げすぎてた気はする〜〜〜

安定の山ちゃんやったね。

続編見たけど、大谷育江のデニスがかわいすぎて………

 

クルードさんちのはじめての冒険

ちょっとあまりにもキャラクターの造形がかわいくなさすぎる…最後までかわいくなさに慣れない…あと身体能力がむちゃくちゃすぎる…

笑いどころも驚くほどなくて、クライマックス以外は大きな起伏がほぼないのもうーんて感じ。

なんと声優としてニコラス・ケイジエマ・ストーンライアン・レイノルズとかが出ている。なぜ

 

ヒックとドラゴン

普通におもしろい。飛び抜けて1番とかではないけど、ダメなところが全くないおもしろさ。バイキングとドラゴンってわくわくせえへんわけがない。

トゥースレスがかわいくてかっこいい。

あのラストはバディものとして最っ高やけど、ディズニーにはできひんなと思えてさすがという感じ。

2の方はまあまあやったかなあ。

 

ジャイアント・ピーチ

とにかく、虫たちの造形がセンスよすぎる!ロングブーツにベレー帽のクモ、片眼鏡のインテリキリギリス、二昔前のアメリカの不良みたいなムカデ。このデザインが見られただけでもこの映画見てよかったと思える。最高〜〜

ストップモーション特有の質感は好き嫌い分かれそう。特に桃とか

 

KUBO/クボ 二本の弦の秘密

これむっちゃおもしろいしむちゃくちゃすごい。3Dストップモーションやけど、そう知っててもCGとしか思えへんくらいのクオリティ。まさに映像美という感じ

怖いシーンは鳥肌立つし、巨大なものの存在感が圧倒的。ストーリーもいい。

あと、主人公の吹き替えが矢島晶子なんやけど、お母さんを呼ぶ声だけで泣けてしまうくらいよかった。

11月公開らしいので見て……

 

カンフー・パンダ

おもしろかったんやけどあんまり印象に残ってなくて、もうほんまにほんまにごめんやねんけど修行やとしても食べ物で遊ばんとってほしい…………

2の方が好きかな。悪役が白い孔雀やねんけどとにかく美しくてかっこよくて、しかも吹き替えが藤原啓治

 

ボルト

犬のけなげさがかわいそうかわいい。ビーム出そうとするのあほかわいい。ストーリーは普通

ハムスターに大事なことぜんぶセリフで説明させてしまうのはなんでなん…

 

ライアンを探せ!

ファインディング・ニモマダガスカルのいいとこどりをしようとして、結果ものすごい無が生み出されている

かろうじて青山譲のヘビがかわいい

 

ボス・ベイビー

ちっちゃい子特有の、現実と想像の世界が一緒に存在してる感じが映像化されてておもしろい。あと、ああ赤ちゃんてこんな顔するわあ〜みたいなのがあって楽しい

兄弟ものに弱いのもあって最後の方は普通に感動してしまった…

 

マダガスカル1〜3

芸能人がいっぱい吹き替えしてるけどみんな合ってていいよね。

2が1番好きかな!1よりスケールが大きくいのにまとまっててにぎやかで、それぞれのキャラクターのエピソードもしっかりあって。コパカバーナ流れるシーンは毎回あー最高〜〜〜と思う

 

ペンギンズFROMマダガスカル

kawaii〜〜〜ってなるための映画

全体的にテレビシリーズの感じを期待して見るとちょっと微妙ではある

ただペンギンズがかわいい

 

ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか農場を救え!

ストーリーもギャグも正直あんまりやけど、悪役が歌うヨーデルがまじで超〜〜〜すごいのでそこだけ見てほしい…まさに魅惑の歌声…地声と裏声の奇跡的な行き来…吹き替えの大川透もすごいけどやっぱり原語版がもんのすごい。それまでは悪役らしい低い声やのに、ヨーデルになる瞬間にハチャメチャに明るくて甘い声になるんもやばすぎる

 

プリンセスと魔法のキス

名曲が多いし映像もすごいきれいやけど、メインキャラ2人がほぼカエルの姿なんと そのカエルの造形がかわいくないしカエルに見えないのでもったいない映画

特にファシリエの歌のシーンの映像むっちゃぞくぞくする。これぞヴィランズ!て感じ。ママ・オーディの歌も大好き

 

リビアちゃんの大冒険

なんで邦題これなん??名探偵バジルでよくない??

キャラクターのデザインがまさにクラシックなディズニーって感じで素敵。

手足が細長くてスマートなバジルとずんぐりむっくりでかわいいおじちゃんドーソン、ザ・悪役ヅラで図体のでかいラティガン、王道でよいね〜〜

 

 

シュガー・ラッシュ

 

1番好きなシーンというか、絶対に泣いてしまうシーンがあって、その話。

 

クライマックス、戦いに決着をつけるために、ラルフが火山に向かって落ちていくところ。

もともとラルフが自分のゲームを出たのは、嫌われ者の悪役が嫌になったから。みんなから認められ、慕われるヒーローになりたいがためにヒーローズデューティでメダルを手に入れて、結果的にシュガーラッシュに来ることになった。

 

火山のシーン、ラルフは噴火を起こすために火口に飛び込んで鍾乳石を崩壊させる決心をする。レースの練習をするシーンで噴火の威力がどれほどのものかはわかってるはずやから、自分が犠牲になるつもりでの行動やと思う。

あんなにヒーローになりたかったのに、ラルフは「あの子を助けられるなら悪役でいい」と 、なんでも壊せる大きなこぶしを前に突き出し、もう片方の手でヴァネロペからもらったペンダントを胸元に握りしめながら落下していく。

それが、ヒーローが飛ぶ姿そのものなんよね。ヒーローになることを諦めたラルフが、その瞬間ヒーロー以外の何者でもなかった。

ラルフは、ヒーローになるにはメダルが必要=みんなに認められ、その証明となるものが必要 と思ってたわけやけど、ヒーローの本質は誰かを救うことにあって、火口に向かうラルフは確かにそれを満たしてた。

自分では気付いてないけど完璧にヒーロー、っていうのを気持ちの面と見た目の両方で同時に表現して重ねてるのが、良すぎる。

 

 

シュガーラッシュ見ると、自分がゲームに詳しくないのもったいないな〜と思うなあ。

あと、フェリックスとカルホーン軍曹のカップルめっちゃいい。

 

塔の上のラプンツェル

 

ゴーテルとラプンツェルの関係について。

 

ゴーテルはいわゆる毒親がモチーフになってるんかなと思った。セリフを見ても、「あなたは何もできない子ども」とか「お母様の言う通りにしてればすべて大丈夫」「結局私が悪役なのね」とか、まさにそれっぽい。ラプンツェルを塔に閉じ込めてその力を利用してるのも、子どもを自分の元に縛り付けて支配する母親っていうのをファンタジーの世界に持っていくとそうなるって感じ。

 

あと、二人の関係は共依存なんかも。ゴーテルはラプンツェルの髪の力がないと若さを保てず、どころか生きていられず、わかりやすくラプンツェル(の力)に依存してる。自分のそばにずっとラプンツェルを置いておく必要があるわけやけど、ラプンツェルからするとゴーテルに力を利用されることにはなんのメリットもない。だからゴーテルはラプンツェルを自分に依存するように育ててきたんやと思う。その方が自分にとって都合がいいから。

ゴーテルはラプンツェルがいないと本当の意味で生きていけないからその分、というかそれよりも強く、ラプンツェルを自分に依存させる必要があった。

でも、ゴーテルはラプンツェルに対して一切愛情を持ってなかったんか?って考えるとどうなんかなあと思う。ラプンツェルは塔の中でそれなりに幸せに暮らしてたみたいやったし、ゴーテルはラプンツェルの好物を把握しててわざわざ作ったりもしてた。そして、誕生日プレゼントを買いに3日も塔から離れるって、そんなこと普通する?めちゃくちゃ外に出たがってるラプンツェルをひとり残して?

 

ラプンツェルはゴーテルに「お母様がいつも正しい、外は危険で塔の中でお母様のそばにいれば安全」と思い込まされて、外の世界に憧れつつも、十何間年も自発的に外に出ようとすることはなかった。でもただ力任せに洗脳されてたんではなく、その中でゴーテルからの愛情みたいなものを感じられてはいたんかなーと思う。その愛情が正しい意味の愛情であるかどうかは置いといて。

だからこそ、ユージーンに連れられて外に出たあとに、開放感だけじゃなく罪悪感でいっぱいになってるのやと思う。 約束を破ったから怒られる!じゃなくて、お母様を裏切ってしまった!悲しませてる!っていう気持ちからあんなに沈んでるわけで。

 

ゴーテルがラプンツェルの髪に足をとられて塔から落ちるシーンで、ラプンツェルは一瞬ハッとしてゴーテルに向かって手を伸ばそうとするんよね。すべての真実を知って、ゴーテルを倒そうとしてたはずやのに。

たとえ打算的なものやったとしても、やっぱりラプンツェルはゴーテルからの愛情みたいなものを受け取ってて、愛されてると感じてたんちゃうかなと思う。

 

こないだノートルダムの鐘を見て、フロローとカジモドの関係がゴーテルとラプンツェルのそれに似てると思った。悪役が自分の欲のために、赤ん坊を閉じ込めて自分一人の手で育てる。状況はほぼ同じで、違いは軟禁されてる側の精神状態だけ。

カジモドは、フロローに必ず従うように、決して反抗しないように厳しく躾けられて卑屈に育った。外に憧れを持ちつつも、自分は怪物だと教えられてきたから実際には出ることもなく。

外の世界に出したくないだけなら、フロローがカジモドにしたのと同じようにラプンツェルを躾けるっていう選択肢もゴーテルにはあったはず。でもそうはしなかったわけで、それはただの戦略の違いなんかなあ?