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ファインディング・ドリー

 

ドリーは忘れん坊で何でもかんでも忘れてしまう。それを、コミックリリーフとしての特徴、劇中での笑いどころとして消化するのではなく、ドリーを形作る性質のうちのひとつだと捉えるという話。

またキャラクターは、ストーリー上その特徴を持つ役割が必要だったから作られた、特徴ありきのハリボテなんではなくて、「その特徴を性質として備えているキャラクターが、ストーリーに登場している」のであるという話。

 

前作のニモでは、片方のヒレが小さいという外的なハンデについて、今作は内面のハンデについて描いている。内面のハンデは、目に見えない分わかりにくく、自分でもただの欠点だと思い込みがちで、自分の性質だと理解して向き合い、付き合っていく方法を見つけるのはむずかしい。

ドリーの周りが彼女のことを理解するだけでなく、彼女も自分自身を理解するというのが物語の軸としてある。

 

前作では、ドリーの忘れっぼさは作中でのギャグのためのものでしかなかった。この作品に限らず、怖がりとか怒りっぽいとか間抜けとか、笑いどころとしてキャラの性格、というか欠点が使われるのは全くめずらしくない。普段そういうものだと思って気にも留めていないけれど、それってその人自身にとっては笑いごとではないのでは?

お話の中ではギャグのための記号でしかなくても、その人にとっては自分の性質なわけで「忘れん坊」「間抜け」というステッカーが自分にぺたっと貼ってあるだけなんではなくて、切り離せない「自分」の一部なんである。そういうことに切り込んでいるのが今作だと思う。

 

これって挑戦的というか、寝た子を起こすみたいなところがあると思った。主人公の脇に、なんにも考えていないようなおバカなキャラを置いて、その発言や行動をお話の笑いどころにするなんていうのはどの作品でもある程度あてはまるところはあるし、もちろんディズニー作品にもたくさんある。

今作でドリーの忘れっぽさについて茶化さずに深く深く描いて、持って生まれた性質と向き合うしかないことの重たさを見た人に印象付けたことで何が変わるかというと、以前のようにはドリーで軽く笑えなくなるんである。面白さを感じても、その裏に地続きのストーリーがあることをもはや知ってしまっている。

そしてこれは、ドリーというキャラクターに限られたものではない。作品の中にはドリー以外にも、様々なハンデを持つキャラクターがたくさん登場する。7本足のハンクとか目が悪いディスティニーとか。それがキャラ付けのためではなくて彼ら固有の性質なんだと自然と納得できるようになるし、何か問題を抱えていることが当たり前と思わせる。それらのキャラクターの中で特に注目してしまうのは鳥のベッキーだと思う。

 

 

ベッキーは典型的な「何を考えているのか分からない間抜けっぽいキャラ」である。作中でマーリンがベッキーの助けを借りようとするとき、心を通わせろとか気持ちは伝わるとかそういうことを言われる。

ここで表現されようとしているのは「何を考えているのか分からない」キャラクターが「何も考えていない」わけではないということだと思う。他人の目からは考えているかどうかすら分からないとしても、自分が考えている以上、自分と同じ存在である彼女も考えている。その点で自分と彼女は同じである。

種族の違いがあるので分かりにくいけれど、前作と今作の世界では動物ならみんな意思を持っていて話も通じるという前提があると思われるので、ベッキーとマーリンが同質の存在だといって問題ないはず。

 

また、マーリンとニモとの会話で出てくるセリフに「ドリーならどうする?」というものがある。これはつまり他人の立場になって考えてみるということであるけど、一見よく分からない他人の目線に立ってみることで、その他人も自分と同じ存在だと捉えることができる、というところまで含んでいると思う。

自分の生きている世界は「自分目線の世界」でしかないこと、自分以外の他人にもそれぞれの「自分目線の世界」があることを意識させてくれるという役割を、マーリンとニモが担っているのだと思う。

 

 

ベッキーとあまりにも似た存在がその近くにいることは、やはり気になるところだと思う。アシカのジェラルドもまた「何を考えているのか分からない間抜けっぼいキャラ」で、ベッキーほどには話の筋に関わってこない。考えたのは、彼は「練習問題」なのではないか?ということである。

作品を見た人は、まず主人公のドリーを通して、キャラクターの性質が単にキャラ付けのためのものではないことを学ぶ。主人公なので、ドリーは主観も描かれる。そしてベッキーも「他人を理解すること」という流れで登場し、今度はベッキーの気持ちは描かれずに客観だけ。そして、似た性質のジェラルドはほぼ登場するだけなんである。

まるで、「ドリーはこうでした、ベッキーはこうかも、ではジェラルドは?」という問題が示されているみたいだと思った。ドリーとベッキーの描かれ方を見た後に、これまでと同じくジェラルドを単なるコミックリリーフと捉えることが果たしてできるのか?

そういう問題を投げかけられている気がしたし、これはこの「ファインディング・ドリー」という作品内に限らず、今後見るすべての作品に影響してしまうかもしれない考え方の提示だと思う。そういう憲味ではむしろ、呪いのようだとも思った。

 

前の方で挑戦的で寝た子を起こすようだと書いたのは、これまで数多くの作品を生み出し、これからも作り続けていくディズニー・ピクサー自身が、その作中に登場するキャラクターの捉え方の根本を揺るがす価値観を掲げてみせたからである。キャラクターの描き方というか、作品を作る上でのあり方がこれから変わっていくのかな。

 

 

長々と書きすぎたけど、この考え方も内面のハンデというテーマもその解決の仕方も、すごく現代的で今のわたしにとって納得がいくものだった。もっと好きなシーンについてとかも書こうと思ってたのに。次の機会にしよ。