カワモのもの

ディズニーや海外3DCG映画が好き

アトランティス 失われた帝国 ヴィニーの来歴について

 

作中のマイロがウィットモア氏と話すシーンで、アトランティス探検のクルーたちについて記載された書類が登場しますが、その内容をわかる範囲で日本語訳してみました。
(出典:Atlantis: The Lost Empire (2-Disc Collector’s Edition) )
↑北米版の2枚組DVDの特典映像です

ちなみに、ヴィニーについての部分だけです。

 


Vincenzo "Vinny" Santorini is the eldest child of Humberto and Fabiola Santorini. 
The parents own and operate a shop that specializes in floral arrangement and holiday decorations.

ヴィンチェンツォ "ヴィニー" サントリーニは、ウンベルトとファビオラサントリーニの長子。両親はフラワーアレンジメントとホリデーデコレーションを専門とするショップを所有、運営している。

the eldest ということは下の兄弟がいるのでしょうか。
実家について、作中では普通に「お花屋さん」flower shop と話していましたが、コサージュを作ったりもするのでfloral arrangementに特化しているお店ということ?
holiday decorationsは適切な和訳がなかったのですが、クリスマスやハロウィンのような季節感のあるイベントの飾りのことを言うみたいです。画像検索すると、ごちゃごちゃキラキラしたかわいらしいお店がたくさんヒットします。
もしかすると、雑貨屋っぽい雰囲気のお花屋さんだったのかもしれません。

 


Due to an unfortunate, and to date, unexplained explosion, the Santorini family was forced to relocate their business. 

不幸なことに、原因不明の爆発によってサントリーニ一家は事業所の移転を余儀なくされた。

and to dateはちょっと訳し方が分からず…
彼はお店の爆発について「神様のお告げ」という前向きな発言をしていましたが、実際のところはお店を移転するほどのどでかい事故だったようです。

 


Young Vincenzo seemed to always have a passion and fascination for, fire, and was disciplined often as a small boy for lighting blazes.
After the accident with the Flower Shop in 1891, Vinny became more obsessed with pyrotechnics and explosives. 

若き日のヴィンチェンツォは火に対して常に情熱と興味を抱いていたようで、幼い頃には火遊びをしてよく叱られていた。1891 年に花屋で事故が起こった後、ヴィニーは花火や爆発物にますます夢中になった。

お店の爆発がきっかけで火に興味を持ったわけではなかったんですね。また彼は本編開始時の1914年には38歳だそうなので、生年は1876年。例の爆発があったのは15歳の頃だったようです。

 


He began to mix his own formula for TNT in 1894 when he was 18. 
By the time he was 22, Vinny was known as an accomplished amateur chemist who specialized in explosive compounds.
It wasn't until 1899 that he was able to prove himself professionally in the field as an explosives expert.

1894年、18歳のときに、彼はTNTの独自の配合を始めた。22歳になるまでに、ヴィニーは爆発性化合物を専門とする熟練したアマチュア化学者として知られるようになった。1899 年になってようやく、彼は爆発物の専門家としてこの分野で実力を発揮することができた。

爆発物については独学で学んできたっぽい。
”Expertise”という経歴をまとめたような部分にもこの時期の業績の記載があります。

 

Freelance Munitions and Ordinance placement, Milano Mining, 1900; 
Experience as Arson Specialist, Rome, 1903;
 Special consultant to Italia Bridge and Tunnel, 1903-04; 
Demolitions Expert, Sicily Construction 1904, 

1900 年:ミラノ鉱山でフリーランスの軍需品および兵器の配置
1903 年:ローマで放火専門家を経験
1903-04 年:イタリア橋梁およびトンネルの特別コンサルタント
1904 年:シチリア建設で解体専門家

このへんは固有名詞が多く全然分かりません。
Arsonは「放火」という訳しか見つけられなかったのですが、さすがに他の訳があるのでは?と思います

そして、ここから一気にきな臭くなってきます

 

He quickly grew in reputation and fame as an authority on demolitions, and garnered the attentions of local businessman Enrico Bentivegna.
While in the employ of the Bentivegna family, Vinny seemed to drop from public sight. Clues as to his whereabouts surfaced with the explosive destruction of several delivery trucks of a business rival of Bentivegna. 
It is known that Luca Addario approached Vinny about a career change in late 1905.
It is also known that Enrico Bentivegna and four employees were killed in an explosion that' consumed their two automobiles.

彼は解体工事の権威として急速に評判と名声を高め、地元の実業家エンリコ・ベンティヴェニャの興味を惹くところとなる。
ベンティヴェニャ・ファミリーに雇われていた間、ヴィニーは表社会から姿を消していたようだった。彼の居場所に関する手がかりは、ベンティヴェニャの商売敵の配達トラック数台が爆破されたことで明らかになった。
1905 年後半には、ルカ・アダリオがヴィニーに転職を持ちかけたことが知られている。またエンリコ・ベンティヴェニャおよび従業員 4 人が、2 台の自動車が炎上する爆発で死亡している。


Explosives Technician for Bentivegna Family Concrete and Olive Oil Importers 1905, 
Technical Support and Advisor to Addario Meat Packing 1906, 

1905 年:ベンティヴェニャ・ファミリー(コンクリートおよびオリーブ オイル輸入業者)における爆発物技術者
1906 年:アダリオ・ミート・パッキングにおける技術サポートおよびアドバイザー

地元の権力者お抱えの爆発物専門家、みたいな立ち位置だったようです。完全に企業間抗争の渦中にいるように思うんですが、本人的にはどうだったんでしょうか。にしてもライバル会社のボスにヘッドハンティングされて、その前年までの雇用主を爆発によって始末しているっていうのはなかなかどえらいことですね…

 

Italian Authorities were quick to place responsibility for the blast at the feet of Vincenzo. He did a stretch of time in Milan's Delphi Prison, where he continued his education as an expert in the fields of engineering and demolitions. His sentence was cut short by 42 years in 1911.
Currently employed with Mining Division.

イタリア当局は、爆発の責任を即座にヴィンチェンツォに追及した。彼はミラノのデルフィ刑務所で服役し、そこで工学と解体の分野の専門家として教育を続けた。彼の刑期は 1911 年に 42 年短縮された。現在は採鉱部門に勤務。


Master's Degree in Engineering and Demolitions; 
Delphi Prison Correspondence Reform Program 1909, 
Bachelor's Degree in Advanced Chemistry, Delphi Prison Correspondence Reform Program 1910, 
Technical Overseer Whitmore Industries Mining 1913, 
Hardrock Blasting Technician, Whitmore Industries 1913.

1909 年:デルフィ刑務所通信改革プログラム・エンジニアリングおよび解体の修士号取得
1910 年:デルフィ刑務所通信改革プログラム・応用化学の学士号取得
1913 年:ウィットモア・インダストリー 鉱山技術監督
1913 年:ウィットモア・インダストリー 発破による岩石掘削技術者

刑務所に入ったのは1906年か、その少し後のようです。
刑務所内の職業訓練の一環で修士号まで取ることができるんですね、すごいことしてるのでは?

また、ローク司令官の経歴のところにアイスランドへの旅は1911年のことだったと記載があったので、少なくともそれまでには出所しているようです。とすると、服役期間は5年ほどみたいですね。

おそらくウィットモア氏が羊飼いの日誌を調査する旅に同行させたいがため、彼の刑期を何らかの方法で短縮させ(42年分も?)、ウィットモア・インダストリーに入ることとなったのでしょう。

ウィットモア氏が見せた写真に映るクルーたちの見た目にほとんど変化がなかったので、前回の旅もそれほど前のことではないとは思っていたものの 本編の3年前くらいだったんですね。集合写真の彼は刑務所を出たてだと思うと、心なしか人相も悪めに見えてくるような。

ただ、本来は50年弱だった刑期を10分の1ほどの期間で出てくるって、学業に打ち込む模範囚だったとしても保釈金とか、どういう…
それだけウィットモア氏が富豪で有力者ということかも。

 

こうして見てみると、作中での彼の言葉「人は傷つけてない」は無理があるのでは…という気もしますが、そもそもウィットモア氏が「トルコの刑務所」と言っているのに、ここではミラノと記載があったりするので
この内容が本編にそのまま反映されているわけではない、とは思います。